建設作業は地方

非政府組織(NGO)の「反差別国際運動(IMADR)」は、スイス・ジュネーブの国連欧州本部で19日に開かれた国連人権理事会で声明を発表した。名護市辺野古や東村高江などの米軍基地施設建設工事や、抗議市民らに対する日本政府の対応について、「表現の自由を十分に尊重するよう訴える」声明を発表した。
 

日本政府は答弁権を行使し、「沖縄での建設作業は地方自治体の同意下で政府の認可を得ており、法手続きにのっとり行われている」などと反論した。抗議市民らへの対応については今後も、「法と規則にのっとって適切な対応をしていく」とした。
 

声明は国際人権NGOの「ヒューマンライツ・ナウ」や「フランシスカン・インターナショナル」との共同。「米軍の存在が数十年にわたって女性への性暴力など無数の人権侵害を引き起こしている」と指摘し、日本政府は沖縄の反対にもかかわらず米軍基地の建設を進めていることを批判した。
 

辺野古の海上警備会社が抗議市民らのリストを作成していたことに対して日本政府が関与を否定し、調査を行わないと公表したことに懸念も示した。また高江で

取材をしていた新聞記者が機動隊に強制排除されたことに対して、報道の自由が脅かされていると懸念を示した。
   


Posted by jadelung at 2016年09月21日10:42
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大局を見失う」とも述

民進党の前原誠司元外相は26日、党本部で記者会見し、党代表選(9月15日投開票)に出馬することを正式表明した。前原氏は立候補の理由について、「私も旧民主Dream Beauty Pro 好唔好党政権が国民の落胆と失望を招いた戦犯の一人だ。深い反省に立ち、そのことを身に染みて分かっている人間が中心となり、政権を目指すべきだと考えた」と述べた。

 
前原氏は、次期衆院選における野党共闘について「次は政権選択の選挙であり、内政や外交、安全保障など考え方の違うところと組むのは野合だ」と述べ、基本政策の違う共産党との連携に否定的な考えを示した。「基本政策を民進党がしっかりと打ち出し、協力のできるところ(政党)と協力するのが大事だ。初めから政党の数合わせを考えるなら、大局を見失う」とも述べた。

 
憲法改正問題については、「社会不安や閉塞(へいそく)感をどう取り除くかが最大の政治使命だ。憲法改正は最優先課題とは思っていない」と指摘。戦力不保持をうたう9条については「9条そのものが立憲主義の観点に立てば、最も不安定な条文だ」と述べ、改正が必要との考えを示した。

 
ただ前原氏は、「党内にも国内にもいろいろな考え方がある。9条こそが平和を守っていると考えている人もいる。その考え方は尊重したい」とも強調。「党内でしっか



り議論し、たとえ代表であったとしても党内の議論の集約を尊重するのが私の考え方だ」と説明し、党内議論の結論に従う考えを示した。
  


Posted by jadelung at 2016年09月08日10:31
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言うのが定説になり

織田信長さんという人物を一言で言えば、「日本史上、不世出の天才戦略家」だろう。戦略家としては何千年に一人、あるいはこの先誕生することがないかもしれないほどの天才だろう。信長さんを一言で言えば、「超合理主義者」だろう。若い頃は奇行が目立ち、「大うつけ」と呼ばれていたそうだが、一説には母親の関心を引くためとも言われるが、そんなことではなく、守旧的な権威、形式にとらわれた武家の習俗などに対する反発とともに、活動し易さ、自己完結性など野戦における合理性の追求だったのかもしれない。

髷は形にとらわれない茶筅髷、半そで、半袴、帯など使わずにどこでも簡単に手に入る荒縄、腰に水や火打石などの七つ道具をぶら下げて山野almo nature 好唔好を駆け巡るというのは信長さん自身が考えた野戦のスタイルだったのだろう。この人は母親には疎まれ、兄弟には背かれ、家臣にはそっぽを向かれ、天才とは言っても一部の能力だけのことで神ではないのだから辛いものがあっただろう。

そこで自分でスカウトした親衛隊が兵農分離の戦闘専従部隊の原型となった。当時は戦になると農民を徴兵して部隊編成を行なっていたが、そのために戦は農閑期しか出来なかった。これを戦闘専従部隊を編成して常に作戦行動が可能なようにしたのが信長さんだった。

また、銃器や弓と言った長射程火力を重視し、積極的に戦に取り入れたのも信長さんだった。そうした長射程火力の導入は戦闘における合理性の追求だったのかもしれないが、もう一つは味方から犠牲者を出さないと言うこともあったのかもしれない。信長さんは尾張統一戦膠原自生
で親衛隊から犠牲者が出ると非常に悲しんだと言う。

戦闘で犠牲者を出さずに勝利すると言うのは戦闘における合理性の追求だが、信長さんの部下に対する思いやりもあったのかもしれない。銃器と言う長射程火力を効果的に使用して勝利した戦いの例に挙げられるのが「長篠の合戦」だが、最近は火縄銃の三段撃ちはなかったと言うのが定説になりつつある。

銃兵を3列に並べて入れ替わり射撃すると言うのは不可能と言う。当時の銃器の使用方法は突撃してくる敵に向かって一斉射撃を加えると後ろに引いて槍隊が前進し、最後に騎馬兵が突撃すると言うのが常道のようだ。設楽が原には実際に行って見たが、こんな狭い地域によく何万もの軍隊が展開出来たと思うほどだ。信長さんはここに野戦築城で陣地を築いて馬防柵で騎馬兵の突撃を阻んだと言う。

射手が入れ替わる三段撃ちというのは大部隊では難しいと言うが、部隊ごとに射撃の順を決めておけば間断のない濃密な弾幕を構成出来る。徳川軍は柵から出て白兵戦を行なっているが、織田軍が白兵戦を行ったと言う記録はない。それでいて武田軍が全滅に近い打撃を受けたと言うことはやはり銃器の威力なのだろう。
  


Posted by jadelung at 2016年09月02日10:26
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